アカデミックツアー「河内の中心地〝高屋城″を田中誠講師と巡る」
2023年3月17日
こんにちは。社会学科講師の田中誠(日本中世史)です。
ずいぶん前ですが、去年の11月、社会学科講師 田中誠によるアカデミックツアー「羽曳野市“高屋城”をめぐる」が開催されました。今回はその様子を紹介したいと思います。
高屋城というのは、羽曳野市にあった戦国時代のお城ですが、「そんなのあったっけ?」と不思議に思われるかもしれません。ですが、河内守護であった畠山氏が応仁の乱(応仁元年(1467)~文明9年(1477))の後に、河内国に下向し、その後しばらくして築城を開始した城がありました。それが高屋城です。明応元年(1492)ころに起きた足利将軍家をめぐる政変では、河内国が主戦場となり、この高屋城を含む羽曳野市・藤井寺市も戦場となりました。以下少し遺構を紹介します。
一見するとただの道路と踏切が映っているだけですが、ここは歴史的な景観がよく残っています。まず道路は、古代から現代にいたるまで主要な街道であり続けている「東高野街道(ひがしこうやかいどう)」です。コンクリート舗装されていますが、道そのものは古代から存在し続けており、高野山への参詣路として栄えました。
そしてその道路の左側の小高い藪がみえますが、これが「高屋城」大手口の土塁(どるい)です。土塁とは、城に敵の侵入を防ぐための防御施設で、土を盛って巨大な壁としたものです。ここは高屋城と古市の街場をつなぐ重要な場所だったのです。
この写真の右側に写っているこんもりした林が、「高屋築山古墳(安閑天皇陵)」です。高屋城は、この安閑天皇陵を本丸とした、つまり古墳をお城に転用した城郭でした。大阪城のような天守閣がドンとあるだけが城ではないのです。高屋築山古墳は、「世界遺産 百舌鳥・古市古墳」の構成資産には入っていませんが、それでも全長122mをほこる前方後円墳です。
この写真に写っている藪も高屋城の土塁跡です。ただの藪に見えますが、これも立派な文化財です。写真を撮っている側が三の丸、向こう側が二の丸でした。高屋城は戦国時代の河内国の中心であり、なんども兵火にさらされました。最終的に織田信長の河内侵攻により落城し、以後は廃城となりました。
現在、城内のほとんどは、住宅地となってしまいましたが、このほかにも城跡をうかがわせる遺跡が残っています。古墳といえば世界遺産と思いがちですが、あとの時代にどのように古墳が位置付けられて利用されてきたかという点を考えるのも、歴史と地域との関係を考える上ではおもしろいのではないでしょうか。
高屋城のほかにも、様々な史跡を回りました。当日の様子はこちらから、ぜひご覧ください。
社会学科では、こうした近隣の史跡・文化財をめぐり、地域の歴史を「再発見」する授業も開講されています。ぜひ本学科にきて、多様な視点から歴史を学んでみてください。また在校生は興味があれば受講してください。
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