社会調査実習:大正区を読み解く【前編】
2022年12月13日
授業「社会調査実習」は、「社会調査士」を取得するための、総仕上げにあたる科目です。
四天王寺大学の社会学科では、異なるフィールドで調査を行っている4名の教員が同時に協力して、この科目を担当しており、本授業を履修することで、これまでの履修の中で身につけた社会調査に関する知識を実践に応用する力を身につけると同時に、さまざまな角度から社会を理解する能力を育むことができます。
本授業では、実習の一部として、夏学期は大阪市西成区の釜ヶ崎地区へのフィールドワークを実施しましたが、冬学期は隣接する大正区でフィールドワークを行ってきました。
今回はその【前編】です。
![]() 集合場所の大正駅。徒歩、バス、そして渡船を使ってめぐります。
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![]() 引率の田中清隆先生(地理学)による自作のガイドマップ。 |
前回フィールドワークを行った西成区の釜ヶ崎地区は、かつては職業紹介に関連する施設や多くの宿泊所が立地し、働く人々が「生活する場」としての側面が強い地域でした。大正区は、阪神工業地帯の中核として、工場や港湾などが立地し、人々が「働く場」としての側面が強い地域です。働く場としての、大正区の起源は、1883年に渋沢栄一らの民間実業家によって大阪紡績会社がこの地に設立されたことに始まりましたが、現在でも、衣料品、食料品から鉄鋼、化学、機械など、数多くの工場が立地しています。
![]() 現在も稼働する工場。 |
![]() 港湾の見学。向かって左は艀(はしけ)、右はタグボートが係留されています。 |
工場を流通面から支えてきたのが水運を中心とした物流です。元々、現在の大正区にあたる場所は三角州でしたが、江戸初期から新田開発が行われ、明治以前には、風光明媚な景観から、渡船を使って多くの人々が訪れたといいます。日本の近代化とともに、次第にこの地域の港湾が整備され、1915年には当時として巨大であった大正橋が架橋されました。1973年になると、巨大な船でも通行が可能なように、桁下を極めて高く設計した千本松大橋が開通しました。千本松大橋は徒歩でも歩行できますが、あまりに高い橋は歩行が困難ということで、現在でも代替手段として、近くに無料の渡船が運航しています。ループ橋と渡船という珍しい体験ができる千本松大橋付近は、工場地帯ならではの観光スポットにもなっています。
![]() 千本松大橋。限られた面積で登坂可能な角度にするため、ループ状に設計されています。 |
![]() 千本松渡船場。無料で乗船可能なため、通勤、通学、観光に利用されています。 |
大正区は沖縄出身の方々が数多く居住する「リトル沖縄」としても知られています。数多くの工場が集積し、港湾が立地していたことは、沖縄から出稼ぎに来られる方々がこの地域に集住された一つの要因ですが、沖縄の方々が出稼ぎに向かったのは、第一次世界大戦後の不況の中で、「ソテツ地獄」と呼ばれる、本来では食料にあまり向かない植物であった「ソテツ」を食料にせざるを得ないほどの困窮が沖縄で起きたこともその要因でした。現在では十全な災害対策がなされていますが、河口付近という土地は、かつては災害にもろく、居住環境としては必ずしも好条件とはいえない場所でもありました。現在、料理店や名産品店など、沖縄に関する多くの観光スポットが所在する大正区ですが、こうした苦難や助け合いの歴史も知っておく必要があるでしょう。
→ 続きは【後編】でご紹介します。
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