「地域文化発信演習」の成果その1:道明寺天満宮のながーい歴史――道真とのふかーい関係も!?



今回から数回にかけて、前前前回にご紹介した科目「地域文化発信演習」の成果として、この科目を履修した学生による「道明寺(どうみょうじ)天満宮」のレポートを見ていただきます。ひとつの対象を学生それぞれの視点で切り取っていく様子をお楽しみいただけたらと思います。

************

みなさんは「天満宮」にお参りに行ったことはありますか? 学問の神様を祀っていることで有名な「天満宮」ですが、実は全国に12,000社ほどあり、稲荷神社、八幡神社に続いて3番目に多いそうです。その中でも今回は、四天王寺大学近辺にある天満宮「道明寺天満宮」について、実地調査と宮司さんへの聞き取りから学んだことを紹介していきたいと思います。

ここ道明寺天満宮では、学問の神様と知られる菅原道真だけでなく、道真の伯母にあたる覚寿尼(かくじゅに)、そして天照大神(あまてらすおおかみ)の子どもにあたる天穂日命(あめのほひのみこと)を御祭神として祀っています。覚寿尼は当時道明寺に住んでいたとされています。また、道真が実際に使った道具も残っており、道真も道明寺に訪れていたことが分かっています道真が実際に訪れたという天満宮としてはこの道明寺天満宮が唯一だ、と宮司さんはおっしゃっていました。そんな特別感あふれる神社が地元にあるなんてなんだか誇らしいですね。

上の写真は、道明寺天満宮の歴史について紹介されている案内板です。ここに書かれている内容を、宮司さんに聞いた話を取り入れながら私なりに解釈して紹介します。

垂仁天皇の時代、野見宿祢(のみのすくね)が埴輪を開発した功績を称えられ、「土を扱うプロ」として土師(はじ)という姓と土地を賜った。そして、もらった土地に遠い祖先である天穂日命を祀った土師神社を建てた。

土師氏は、全国にある約4,500の前方後円墳はすべて造りに行くなど、活躍を見せていたが、時代が進むにつれて古墳は造らないようになり、土師氏の仕事は減っていった。さらに、死に携わる仕事であったため、周りからは名前を聞くだけで忌み嫌われていた土師氏は、住んでいた地域が菅原だったことから、菅原に改姓した。土師寺には覚寿尼が住んでいたので、道真もこの地を度々訪れた。

道真の没後、道真を祀る天満宮が建てられ、土師神社から道明寺天満宮に改名された。

このことから、道明寺の歴史は1300年以上続いていることが分かります。そんな古くからある神社が今もまだ残っているなんてびっくりですよね。

 

上の写真は、道明寺天満宮の御神木のひとつである常梅樹の写真です。この木には文字通り、一年中梅の実がなっています。通常梅の実は5月ごろには落ちてしまいますが、この木には実地調査を行った11月でもまだなっていました。おみくじがたくさん結ばれていることからも、御神木らしさがあふれ出ていますね。

梅と道真をつなぐ伝説として、飛梅伝説というものがあります。飛梅伝説とは、左遷された道真のもとへ梅が飛んで行ったとされる伝説です。当時右大臣であった道真は、藤原氏の陰謀によって太宰府へと左遷されることになります。太宰府へと出発する際、自宅の庭に咲いていた梅に向かって

東風(こち)吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春なわすれそ

と詠みます。そして、道真が太宰府に着いたころ、その梅が道真のもとへと飛んで行ったといわれています。

道真は梅のことを想い、梅もまた道真のことを想う様が描かれたこの伝説。とてもロマンチックで素敵だと感じました。

このように、道明寺天満宮には長く、道真との縁も深い歴史がありました。こんなに深い情報をたくさん得られたのは、実地調査と聞き取り調査を行ったおかげです。聞き取りに加え、天満宮の案内もしてくださった宮司さん、本当にありがとうございました。

この記事を読んで少しでも興味が湧いた人は、ぜひ道明寺天満宮を訪れてみてください

************

【関連リンク】

日本学科の公式Instagramを開始しました。
学生と教員が学科のリアルをお伝えします。

https://www.instagram.com/ibu.nihon/

→日本学科の紹介はこちら

→四天王寺大学 OPEN CAMPUS2023 次回は8/17(木)、18(金)開催!詳細はこちら

→学科ブログ:地域の文化と歴史の魅力を再発見!!――道明寺天満宮での調査を通じて

一覧に戻る 学科に戻る