「地域文化発信演習」の成果その4:歴史から見る誉田八幡宮について



以前から続いている、昨年度の新科目「地域文化発信演習」の成果:学生による「誉田(こんだ)八幡宮」についてレポートを見ていただきます。4本目となる今回は、幾重にも積み重なった史実に重みを感じとった学生の報告となります。

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写真1 誉田八幡宮境内、中央の建物は拝殿

1.はじめに

今回、地域・文化発信演習の講義の一環で、12月に羽曳野市は古市にある誉田(こんだ)八幡宮を訪れた。誉田八幡宮は古市古墳群の中でも最大級の古墳、応神(おうじん)天皇陵に並ぶ形で建てられており、応神天皇陵と深いかかわりがある。本記事では応神天皇陵との関係や歴史から誉田八幡宮がどのような神社であるかをお伝えする

写真2 絵巻物『誉田宗廟縁起』の一部、左端に国宝の「塵地螺鈿金銅装神輿(ちりじらでんこんどうそうしんよ)」が見える

2.誉田八幡宮の歴史について

誉田八幡宮の歴史は『誉田宗廟縁起(こんだそうびょうえんぎ)』という絵巻物に詳しく記されている。写真2はその一部であり、この絵巻物には誉田八幡宮創建のイメージが描かれている。

誉田八幡宮の歴史は古墳時代にさかのぼり、欽明天皇の「応神天皇陵の前に神社を建て、八幡神を祀りなさい」という勅令によって建立された。この八幡神とは応神天皇であるとされ、国や武士を守る守護神として古くから信仰されている。また、誉田八幡宮は八幡神を祀るとともに、天皇の眠る御陵を守るという役割を持っている。神社の建立以前は地元民が御陵を護っていたと絵巻物に記されており、その役割は誉田八幡宮へと引き継がれている。

誉田八幡宮の建立後は、聖徳太子や弘法大師、行基、菅原道真といった名だたる人物たちが参籠した。鎌倉時代には源頼朝が八幡宮にお参りし、国宝である「塵地螺鈿金銅装神輿(ちりじらでんこんどうそうしんよ)」をはじめとした宝物を寄進した。これは、八幡神は武運の神であり、源氏は八幡神が氏神であると信仰されていたためだと思われる。

また室町時代には、誉田八幡宮の歴史をまとめた絵巻物『誉田宗廟縁起』を、足利義教(よしのり)が奉納している。その他にも、戦国時代には豊臣秀吉が神社の土地を寄進し、誉田八幡宮が戦火で焼け落ちた際、秀吉・秀頼が写真3の拝殿の再建を助けた記録が残っている。これらのことから、我々がよく知る歴史上の人物たちがこの羽曳野の地を訪れたことがわかる

写真3 誉田八幡宮の拝殿、豊臣秀頼・徳川家によって江戸時代前半に再建された。

3.誉田八幡宮を人々が訪れる理由

ここまで、多くの歴史的有名人が誉田八幡宮を訪れた歴史をお伝えした。日本には他にも八幡神を祀る神社があるにも関わらず、なぜ多くの人々が羽曳野の地を訪れるのだろうか。私はこの神社が応神天皇陵のそばにあり、古くから御陵を護ってきたからであると考える。先の誉田八幡宮の歴史でも述べた通り、誉田八幡宮建立以前から、この地には応神天皇が眠ると信じる人々が護ってきた。八幡大菩薩を祀る神社は数あれど、その神であるとされる人物が眠る御陵のそばに建つ神社はこの誉田八幡宮だけだ。それだけ応神天皇陵と誉田八幡宮に深いかかわりがあるからこそ、この地を多くの人々が訪れるのではないだろうか。

4.最後に

本記事作成にあたって、宮司の方から様々なお話を聞くことができた。本記事では深堀りすることができなかったが、誉田八幡宮にて保管されている宝物の数々や、秋に行われている例祭、拝殿前に植えられている橘・桜の木等、お話を聞けば聞くほど応神天皇の御陵を守る誉田八幡宮の魅力がわかる有意義な現地調査となった。

日本学科は、今回の誉田八幡宮での調査のように、普段は知りえない出会いや発見がある学科だ。歴史や文化から日本という国を知りたい、より日本を好きになりたいという方はぜひ日本学科をのぞいてみてほしい。

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【関連リンク】

▼「地域文化発信演習」の成果
その1:誉田八幡宮の「特別」とは? 放生橋から歴史を見る
その2:羽曳野の宝、そして日本の宝、誉田八幡宮の「特別」とは?
その3:国宝って結構身近!?
その4:歴史から見る誉田八幡宮について
最終回:【おのれは知っとる?】「応神天皇陵古墳」と「誉田八幡宮」の関係

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