「地域文化発信演習」の成果その2:羽曳野の宝、そして日本の宝、誉田八幡宮の「特別」とは?



この写真は、誉田八幡宮の鳥居と応神(おうじん)天皇陵を一枚に収めたものです。

2021年12月上旬、四天王寺大学の日本学科の講義「地域・文化発信演習」にて誉田八幡宮へのインタビュー調査を行いました。誉田八幡宮は、大学がある羽曳野市に所在し、2019年に世界文化遺産に登録された「百舌鳥(もず)・古市古墳群」の中で2番目の大きさを誇る応神天皇陵(以下:御陵)の南に隣接しています。

今回のインタビュー調査を通じて、誉田八幡宮は他の八幡宮と違って「特別」な八幡宮であると感じました。この記事では、私が感じた「特別」である理由を2つ紹介します。

理由1 応神天皇陵との関りが「特別」!

誉田八幡宮は、欽明(きんめい)天皇の命により、559年に誉田宗廟(そうびょう)の神殿を建てたことが始まりで、応神天皇を主祭神として祭っています。御陵は歴代天皇や武家に守護神・武神として信仰され、八幡信仰の場として栄えました。

奈良時代の歴史書『日本書紀』には、田辺史伯孫(たなべのはくそん)という男が御陵の近くで見た立派な赤馬を家に持ち帰ったところ、翌朝には埴輪の馬になっていたという不思議な物語「赤馬伝説」が記されています。その赤馬を模した像(写真1)が八幡宮内にありますので是非探してみてください。

写真1 赤馬伝説に登場する赤馬

また、室町時代に描かれた誉田八幡宮の歴史が詳しく記された『誉田宗庿(そうびょう)縁起』には聖徳太子や弘法大師、菅原道真などの名だたる偉人たちが八幡宮に訪れたことなどが記されています。

江戸時代に描かれた『河内国誉田八幡根本本社内之図』(写真2)における右上あたりの描写から、昔は御陵の後円部頂上にも社があったことが分かります。毎年9月に行われている秋季大祭で行われる800年間続いている神輿を渡す神事も昔は御陵の後円部頂上まで神輿が渡されていたそうです。

写真2 誉田八幡宮にある『河内国誉田八幡根本本社内之図』

理由2 貴重な文化財が「特別」!

誉田八幡宮には宝物庫があり、そこでは貴重な文化財が数多く保存・公開されています。中でも、国宝である『金銅透彫(こんどうとうぼり)鞍金具』と『塵地螺鈿(ちりじらでん)金銅装神輿(こんどうそうしんよ)』は特に見逃せません。

『金銅透彫鞍金具』は応神天皇陵陪塚(ばいちょう)丸山古墳から発掘された古墳時代の装飾鞍です。銅板に透かし彫りした唐草文風の文様は竜の形を模しており、製法手法の丁寧さやデザインの美しさからも当時盛んだった朝鮮半島との交流を感じ取ることが出来ます。

写真3 放生橋近くに設置されている案内パネル(写真内右の写真が塵地螺鈿金銅装神輿)

『塵地螺鈿金銅装神輿』(写真3)は源頼朝から寄進された鎌倉時代の神輿です。当時の建築・漆工・金工・染織など様々な面の最新技術によって作られているとても貴重な文化財です。この神輿は、明治初年まで実際に前述した神輿を渡す神事にも使われていました。

また、放生(ほうじょう)橋(写真4)も残っているため、訪れた際は是非見てみて下さい。

写真4 神輿を渡す神事に使われていた放生橋

これらのことから、誉田八幡宮は歴史的に応神天皇陵と深い関わりがある点とそれらに関する貴重な文化財を保存・公開している点が「特別」であると感じました

誉田八幡宮は羽曳野市の宝であり、日本の宝でもあると言えるでしょう。宮司さんは「誉田八幡宮は地域の人々の力によって長年守られてきた」とおっしゃっていました。誉田八幡宮全体が国宝級であると共に、地域の人々や人々の想いも国宝なのだと思いました

私たちが通う四天王寺大学日本学科では、日本語・日本文学、文化・歴史・観光、現代文化など様々な興味から学びを深めることが出来ます。また、今回のブログ記事のように、学びを活かし、実践する機会も数多くあります。皆さんも四天王寺大学で自分が興味のある分野の学びを深めませんか?

************

【関連リンク】

▼「地域文化発信演習」の成果
その1:誉田八幡宮の「特別」とは? 放生橋から歴史を見る
その2:羽曳野の宝、そして日本の宝、誉田八幡宮の「特別」とは?
その3:国宝って結構身近!?
その4:歴史から見る誉田八幡宮について
最終回:【おのれは知っとる?】「応神天皇陵古墳」と「誉田八幡宮」の関係

日本学科の紹介はコチラ

一覧に戻る 学科に戻る