「地域文化発信演習」の成果その1:誉田八幡宮の「特別」とは? 放生橋から歴史を見る



今回から数回にかけて、前回にご紹介した新科目「地域文化発信演習」の成果として、この科目を履修した学生による「誉田(こんだ)八幡宮」のレポートを見ていただきます。ひとつの対象を学生それぞれの視点で切り取っていく様子をお楽しみいただけたらと思います。

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みなさんは四天王寺大学がある羽曳野市はどのような場所かご存知でしょうか? 今回は、羽曳野市にある日本最古の八幡宮である誉田八幡宮についてご紹介していきたいと思います。

誉田八幡宮は応神(おうじん)天皇陵(以下、御陵)の南側に面しています。誉田八幡宮は応神天皇を主祭神としており、古くから御陵を守り、ともに時代を越えてきました。

全国の数ある八幡宮の中でも誉田八幡宮は「特別」です。いったい何が特別なのか、一緒に見ていきましょう。

上の写真は東門から見た拝殿です。境内に一歩足を踏み入れると、厳かで心が浄化されるような心地になります。

12月上旬、境内にはくちなしの実が生っています。鮮やかなオレンジの色の実は、昔から染料や栗きんとんの色付けとして利用されていました。

ほかにも椿の花が咲いていました。椿の花の実からは油を取ることができ、武士たちが刀の手入れに使っていたそうです。八幡宮の主催神である応神天皇を武神としても信仰していたため、武士に関する椿の木が植わっているのではないかと思いました。

参道を進み、拝殿前を右折して進んでいくと誉田八幡宮から御陵に向けて放生橋(ほうじょうばし)と呼ばれる石造りの橋が正面に見えます。

放生橋(上の写真内左)の先(写真右奥の白い壁)は御陵になっており、現在は宮内庁が管理されています。

また、放生橋の右に新しく橋が架けられています。現在も橋を利用して行き来しているみたいですね。一体どのような理由で橋を渡るのでしょうか?  そのヒントとなる江戸時代の古図が八幡宮にあります。

上の古図の左なかほどに描かれている大きな建物が本殿です。右上に山になっているところが御陵になります。

御陵に何か今とは違うものが描かれていませんか? 古図には誉田八幡宮から御陵の頂上に続く道が描かれており、江戸時代の頃は誉田八幡宮が応神天皇陵を管理していたのがわかります。現在は、宮内庁が応神天皇陵を管理しており、参道もなくなっています

しかし、何のために橋を渡り、応神天皇陵の頂上まで行っていたのかまでは古図ではわかりません。この謎には現在も行われている秋祭がヒントを握っています。

毎年9月15日に行われる秋祭では、塵地螺鈿金銅装神輿(ちりじらでんこんどうそうしんよ)という神輿が御陵へ渡されます(下の写真の案内にある写真を参照)。

神輿は橋を渡り、御陵の外堤まで進みます。昔は御陵の後円部の頂上まで渡されていましたこの放生橋は神輿を御陵まで渡すために使われていたのですね。

現在、放生橋は劣化が進んでいます。そのため、秋祭りでは放生橋も右に架かる新しい橋を利用しています。

このように誉田八幡宮は、古くから応神天皇陵を管理してきた唯一の八幡宮です。御陵を管理してきた八幡宮は他にはなく「特別」だと言えます。

日本学科では古くから守られてきた歴史、文化をどのように後世に伝えていくのかを考えていきます。あなたならどのように守り、伝えていきますか。

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【関連リンク】

▼「地域文化発信演習」の成果
その1:誉田八幡宮の「特別」とは? 放生橋から歴史を見る
その2:羽曳野の宝、そして日本の宝、誉田八幡宮の「特別」とは?
その3:国宝って結構身近!?
その4:歴史から見る誉田八幡宮について
最終回:【おのれは知っとる?】「応神天皇陵古墳」と「誉田八幡宮」の関係

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