11月10日 ウパーヤの取材で元興寺を訪れました



 時は、崇峻天皇元年(588)、飛鳥の地で巨大な寺院の建設が始まろうとしていた。

その寺の名前は、かの聖徳太子の息吹が宿る寺、法興寺、別名飛鳥寺、またの名を元興寺という。一基の塔に三つの金堂を備え、鞍作止利による金銅の釈迦如来坐像(現在の飛鳥大仏)、石で出来た弥勒菩薩像、刺繍の仏画をそれぞれの金堂の本尊とした日本最初の本格的寺院であった。やがて時は流れ、都は飛鳥の地から藤原京を経て平城京へと遷る。平安時代初期に編纂された『続日本紀』にも、養老2年(718)に飛鳥の地にあった法興寺を平城京に遷したという記録が見える。奈良に遷都した元興寺は、その後約1300年を経た現在まで創建時の面影を残して法灯を今に伝え続けている。

 さて、ここから私達が取材した元興寺について、いくつか紹介したいと思う。
元興寺は、東門・北門・極楽堂(本堂)・禅室・小子坊・泰楽軒・総合収蔵庫の建築物からなる。

元興寺 石碑と東門

 まず国宝にも指定されている極楽堂(指定名称は「極楽坊本堂」)について紹介したい。別名曼荼羅堂とも呼ばれており、通常の寺院の本尊は仏像であるが、元興寺極楽堂(本堂)は智光曼荼羅が本尊である。智光曼荼羅とは、奈良時代、元興寺で学んだ僧侶智光法師が夢で見た極楽浄土の様子を描かせた図のことであり、唐代の極楽浄土変が原図となっている。密教の曼荼羅とは違い、宝楼閣に宝珠が咲き誇る中、西方極楽の化主である阿弥陀如来が座禅説法をする浄土の変相(様子)を表しており、青海曼荼羅、当麻曼荼羅とともに日本三大曼荼羅と呼ばれている。

元興寺 極楽堂(本堂)

 次に禅室について紹介しよう。この建物は元興寺僧坊の姿を伝える建物で、旧僧坊の平面を生かし、鎌倉時代に改築されたものであるが、細部には当時の最新様式であった大仏様が巧みに使用されている。桁行四間、梁間四間で平屋の切妻造、そして見事な本瓦葺き。何よりも凄いのは、屋根の一部に飛鳥時代の瓦が用いられていることだ。

右が極楽堂、左が禅室          飛鳥時代の瓦が使われた屋根

 最後に総合収蔵庫の展示物について紹介したい。総合収蔵庫に入るとまず目に付くのが中央に立つ五重小塔である。高さ5.5mを測り、瓦や組物を精密に表現したもので、一見すると新しい模型のようにみえるだろう。しかし、その部材の大半は奈良時代末のもので、建造物として国宝に指定されている。

 ところで、皆さんは藤澤一夫氏という人物をご存じだろうか。元興寺の展示には藤澤氏についての紹介がある。藤澤氏は瓦をテーマに研究し、私達の大学の名誉教授でもあった。ちなみに四天王寺の瓦についても彼は研究しており、私達の大学との縁がとても深い。そして何より総合収蔵庫には、聖徳太子立像(「南無仏太子像」)と聖徳太子十六歳孝養像が収められている。聖徳太子立像は太子が2歳の時の姿で、東に向かって手を合わせ、「南無仏」と唱える、その真剣なまなざしや緊張のある袴の裾など、数ある聖徳太子二歳像のなかでも特に優れた像と言われている。また聖徳太子十六歳孝養像は、角髪を結い柄香炉を持つ像で、父用明天皇の病気回復を薬師如来に祈る16歳の姿を刻んでいる。この聖徳太子像を造るにあたり、「眼清願文」、「木仏所画所等列名」、「結縁人名帳」など多くの史料が見つかり、5000人を動員したと述べられている。それらから、この像を造るにあたって、何千もの人々が力を合わせるほど、聖徳太子という人物が敬愛・崇拝されていたことが分かるだろう。

    元興寺 総合収蔵庫

 最後に、何事にもスピードと効率と求められる昨今の世の中において、私達は焦りすぎているのではなかろうか。そんな時にこそ、悠久の時を経て私達を見守ってきた歴史的遺産に触れることで、本来の自分を取り戻すことができるのではないか。この記事を読んでくださった方にも、ぜひ一度、歴史の遺産に触れ、声なき声に耳を傾けてみてほしい。どこからともなく「焦らなくても良い、自分は自分らしく」という声が微かに聞こえてくるであろう。

(学生編集員:大喜多優真)

【参考文献】:『わかる! 元興寺―元興寺公式ガイドブック』(元興寺編、ナカニシヤ出版、2014年)


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