H29年度 第3回あべのハルカス公開講座を開催しました



これまでのこの講座では、講演者本人の外国体験を中心に話すことが通例でしたが、今回は、講演者の経験ではなく、明治の役者一座の欧米巡業を題材にしました。
自由民権運動の壮士芝居、なかでもオッペケペー節で有名な川上音二郎は、妻貞奴(江戸日本橋で嬌名を謳われた芸妓)とともに、川上一座(19名)を引き連れ、1899年米欧巡業に旅立ちました。アメリカでは、悪徳マネージャーに公演料を持ち逃げされ、苦境に陥ったこともありますが、ニューヨークでの公演は、大統領も観劇、次いで渡ったイギリスでは、1900年6月、バッキンガム宮殿で皇太子も観劇するなど大成功を収めます。この勢いに乗じて、折から万国博覧会に沸くパリでロング・ランをおこない、人気を独占、大統領の観劇、さらにはフランス政府からアカデミー勲章まで授与されます。
こうした人気の背景には、幕末以来のジャポニズムの風潮がありました。幕末以来の交流のなかで、欧米もまた、日本の芸術から大きな影響を受けたのです。浮世絵と印象派(画家だけではなく、印象派音楽の巨匠ドビュッシーの「海」のスコアの表紙には北斎の「神奈川沖浪裏」がつかわれています)の関係は有名です。また、貞奴は、ロダン(パリ万博では、ロダン館も開設されています)からモデルの誘いがあったといわれます。プッチーニの「蝶々夫人」の初演は1905年です。
では、欧米で喝采を博した川上一座の演し物とはどんなものだったのでしょう。1900年のパリ万博の際に、日本人としては、ごく初期に属する、川上一座の演し物の録音が東芝EMIからCDで出ています(元版はベルリナー版)。どのような経緯で、またどんな場所で録音されたか不明ですが、長唄、歌舞伎、ヴェニスの商人、オッペケペー節など、川上一座の演目を今に残す歴史資料です。
公開講座では、ジャポニズムの風潮を検討し、「道成寺」を演ずる貞奴についてのフランスでの劇評などにより、川上一座の成功の背景を考え、CDを聞いて、当時の欧米人の反応について考えました。
当時の欧米人にとって、日本の演劇や音楽は、エスニックであることはいうまでもありませんが、同時に、現代の私たちが日本の伝統演劇・音楽に対して持つ感覚と近いところがあるようにも思われます。
今後も、過去の日本人の外国体験、外国人の日本体験をたどる「旅」も考えていければと思います。

終了後の感想では、もっとCDを聞きたかったという意見も出ていました。話す側としても、もっとお聞かせしたかった、というのが正直な感想でした。

 


一覧に戻る